ねこノあしあと

ニャタが思ったこと、考えたことの書留処。

映画『フロリダ・プロジェクト』感想

たまにはブログも書こう!まだこの記事を入れても3つしか書いてないけど(笑)!  

というわけで、映画『フロリダ・プロジェクト』を観たので、感想をつらつらと…

『こんな風に感じた(考えた)!』が中心のメモ書きみたいなもんなので、映画の内容が語られずに文章が抽象的なのは私の基本仕様です。ご了承ください…

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 ※公式HP

floridaproject.net

 

[総評]★★★★☆

5段階中、星4くらいの評価をあげたい作品でした。良作。

いつものごとく、前情報を全く入れずに鑑賞。ジャンルとしてはヒューマンドラマかな。アメリカのモーテルを舞台に、貧困層の生活を主に少女ムーニーの目を通して描かれる作品。映画の要素として下記5個があるんだとすると、各々の感想としては下記。

 

[ストーリー] ★★★★☆

エンターテイメントであったり、何か救いを与える内容ではなくて、

「社会的弱者の物語を、いかに鮮やかに描くか?」に腐心した、とてもリアリティに溢れるストーリー。もちろん現実をただ描いただけじゃなく、そこは映画的なんだけど。

 

[配役/演技] ★★★★★

子役たちの演技がすげーんだ!『これ本当に演技させてんの?単に子どもの素の姿をカメラに収めたんじゃねーの?』って思うくらいとても自然。もう映画じゃなくてドキュメンタリー見てる気になってくるんだよね。

母親役はInstagramで発掘された新人らしい。彼女も好演だったなぁ。もちろん管理人役(『スパイダーマン』でグリーン・ゴブリン役のあの方…名前知らん…)の人情味あふれる演技は、流石な安定感があって素晴らしかった!

 

[演出/台詞] ★★★★☆

一番やられたのはラストだなぁ。『あー、ココで終わりとするのか!』ってのがうまくて、どちらかというと余韻を残す古いフランス映画みたいな感じ。『スリー・ビルボード』もそうだったけど、最近は余韻を残すラストが流行なんかな?

もう1つは、ムーニーが新しくできた友達を、大きな倒木がある場所へ連れていく場面。ジャムをつけたパンを食べながら、どうしてここがお気に入りの場所なのかをムーニーが友だちに告げる。この時の台詞が「倒れても育ってるから」…この作品中で一番心に残った台詞だったし、この映画が単なるリアリティを描いただけじゃないことがよくわかるシーンだった。

 

[映像] ★★★★☆

俯瞰的にもなるけど、基本はムーニーの視点で描かれるから、カメラのアングルも子ども目線で低かったりして、子どもにとって世界が大きく、広いことを感じさせる工夫があった。フロリダの温かい風景が…モーテルの明るいパステルカラーが、ムーニーとその母親の寒々しい絶望的な現状と好対照となって、とても印象深く感じられる映像になってる。上手い…

 

[音楽] ★★★☆☆

オープニングに素敵な音楽がついてて、BGMにも期待しながら見始めたんだけど、本編始まったら全然音楽が流れない…でも、そこが良かった。

子どもの目線から描くから、ここにさらに音楽の力まで加わると、フィクションじみてきて、現実が歪められることを嫌ったのかなと思う。というわけでエンドロールですら、雑踏の音声が流れるだけで、音楽の力というものはほとんどなかった。でも、"音楽を抑えた"という意味で上手かったのかなと思う。

 

子どもと大人の無邪気さが印象深い

その日暮らしの金銭的に切羽詰まった環境において、ムーニーという少女がみせる奔放さは『何も知らない無邪気な子どもだから』では決してないんじゃないか?と思う。

 

子どもはいつだって鋭くて賢い。

「私、大人が泣くときわかるんだ」という台詞も(たぶんそんなニュアンスだった)、子どもが持つそんな鋭さをうかがわせる。一瞬一瞬を燃やし尽くし、楽しみ尽くす様子は、きっと子どもが感じている、自分の周りのどうしようもない閉塞感への反抗だ。

 

『私を圧迫する世界への、このどうしたら良いかわからないモヤモヤは、目の前の一日を遊びつくすことで燃やしてやる!』

 

ある意味、子どもの中にある大人な感性が、この破天荒な明るさ・パワフルさに現れてるんじゃないか?

自由で満たされた裕福な子どもに、目の前の些細な物事に対して、情熱的な遊びのタネを見つけることができるとはとても思えない。満たされた子どもってのは、たいてい物事に愚鈍でつまらなさそうに構えるもんだろう。

パッと見は無邪気に見え、生活の切れ端にすら楽しみを見出すムーニーのせわしない原動力は、きっと世界の"ままならなさ"への無意識な怒りの発露だ。

 

母親(…あれ?おばあちゃんだっけ?…とりあえず、役割は母親だった!)であるヘイリーは非難されるべき部分が多々あるように最初見える。

けど、ムーニーと遊んでいる時のヘイリーは無邪気だ。大人が子どもに接する時の無邪気さは、最初はやけっぱちな態度から入るもんなんだが、だんだんと本気で無邪気になっていき、気づけばその子どもの無邪気さに救われている…そういう愚かな大人の仕草が描かれていたような気がする。

 

だから、映画を観ている観客にとって、このヘイリーが芯からの自堕落で救いようもない悪人であるとは思えない。だって、彼女は子どもの無邪気な純真さを持っているから。そうしてみると、一度弱者に堕ちてしまうと、この社会ってのがいかに弱者に冷たく、這い上がり難い社会であるかというのが、ヘイリーを通じて痛感させられてしまう…純真な彼女がなぜ社会にすくい上げられないのかと思ってしまう。

おそらく先進国における貧困からの脱出って、社会が完熟しているがゆえに、後進国よりもとても難しい構造になってる。

 

彼女は罪を犯したり、社会的に大きな過失を犯してモーテル暮らしになったわけじゃない(詳細には描かれていないが)。自分のプライドを守っただけだ。でも、それで再就職できなくなった。そのプライドも、生きるため(ムーニーを守るため)に押し殺し、押し殺したがゆえにさらに"売春"というレッテルで社会的評価はますます堕ちていく…

 

2人に共通するのは、どこかで破滅の不安を感じながらも、目の前の生活を楽しめているところだ。日本だったらこうはならない…なぜなんだろう?

 

「親子の呪縛」「家庭に介入する権力」「生活の破綻 ≠ 死」

2人の明るさを生み出してる、日本とアメリカの違いはたぶん3つあると思う。

「親子の呪縛」「家庭に介入する権力」それから「生活の破綻 ≠ 死」だ。

 

ハリウッドのヒーロー映画やアクション映画によくある主張って、もう「家族(Family)」が超大事!に見える。"家族こそ人生の全て!"ぐらいの勢いで、「家族」の絆の価値観が語られているのを見ると、アメリカ人にとってもはや「親子」ってのは呪縛なんじゃないかと思う。"親は子を、子もまた親を、愛さねばならない"という呪縛に(本人たちはそれとは知らぬ間に)束縛されている。

※誤解がないように補足するけれども、私は別にそれが悪いと言っているわけではないし、素晴らしい価値観だとも思っている。

 

ひるがえって、日本の親子の価値観ってどうだろう?

アメリカほどの「家族」至上主義みたいな価値観があるか?と言うと、そんなことはない気がする。その価値観自体は認められているけれども、アメリカほど主流ではなく、また最重要な価値観でもない。

 

日本では"親は子を、子もまた親を"という相互関係ではなく、親から子への一方的な愛情であり、"子は親の所有物"という認識が強い気がする。(※ムーニーと同じくらいの子どもと親における関係では特に)

幼い子どもの主体性というのは尊重されていない…というか考慮されていないのじゃないか?そういうわけで、"親は子を愛し、子は親に従わなければならない"という価値観が、日本における幼い子供と親の在り方の主流だろうと思う。

 

そういう親子像の違いを考えると、この映画の中の親子…もし日本が舞台だったら死んでるんですよ絶対!!

「家族」至上主義がない日本だったら、この母親はまず育児放棄をしそうだ。子どもはもっと幼児の頃に死んでいるでしょう。

また、もし育児放棄せずに育てた場合だったとして、『定職につけず、売春による稼ぎも封じられ、家賃ももはや払えない。もう私は絶望的だ…』となれば、映画のクライマックスとして「心中」しか見えないわけです。日本では親の絶望に子も従わねばならない…

 

そういうわけで、日本舞台ではデッドエンドしか見えないハズの主人公たちが、アメリカが舞台だとちゃんと明るく生きている。『ドロドロとした死の影が暗く付きまとってもおかしくない状況なのに全然死の影が見えてこない…この明るさはナニ?』というのが一番気になったし、そういうわけで「親子の呪縛」の価値観が、『ヘイリーのような貧困層の人々でも育児を投げ出さないのに一役かってそう』と思った。

 

「心中」を防ぐ手立てとしては「家庭に介入する権力」がありそうだと思う。

育児という家庭の問題に権力(児童福祉局+警察)が強制的に介入する制度と、それを是とする社会的認知がアメリカにはある。親の絶望に子どもが引きずられないようにしてる。モーテルへ食料の無料配給が来ているシーンの描写とかもあったけれども、弱者に対する福祉制度は、日本より充実してそうだと思った。

 

もちろん、日本にも児童福祉に関する同様な制度はあると思うけど、"家庭に権力を入れるなんて言語道断!"であり、"他人の家庭教育に嘴を入れるのは慎む!"という風潮がある。そういう日本の社会だと、この映画のように通報されず(映画ではムーニーを助けるための通報ではなかったかもしれないけど)、心中による子どもの死を救えない可能性が高い。また映画における児童福祉局と警察の協力関係を見る限り、この映画ほどの協力関係と警察の強制力が日本にあるのか疑問…いや私が知らないだけで同じように機能してるならいいんですけど…

 

母親のヘイリーに死の影がまとわりつかないのは、『生活の破綻は、"死"を選択するほどのシリアスな問題(生活の破綻 ≠ 死)ではない』という常識や制度があるからじゃないかな?社会が生活の破綻を救ってくれる安心感が、底辺な生活のなかの明るさの下地にある気がする。(やけっぱちとなっている可能性は否定できないけども…)

 

ところが日本だと"生活の破綻"は"生存の危機"に直結していて、容易に死に結び付くイメージがある。さらに日本だと生活の破綻は"自己責任"であり、それゆえプライドの高い男性は"自己責任で自殺"してしまうわけで、権力が生活の破綻に(強制的にでも)介入して救済する割合は、アメリカよりもずっと低い気がする。

 

「家族」至上主義を持ちつつ、その最たるものである「家庭」に対して、権力が介入できる余地を作った、アメリカの福祉制度の変遷は気になるところではあるけれども、そういう制度が浸透し、社会全体で『他人の家庭の子どもも救おう!』というマインドがあるんだろうと思う。

 

ヘイリーに死の影がないからこそ、子どものムーニーも死の影をまとわずに済んでいる。この映画、日本で単純に撮ったら、親がまとう死の影の深刻さが、子どもにも伝染してとんでもなく暗い映画になったに違いない…そんな風に考えさせられる話だった。

 

ラストの意味合いは難しいなぁ…これまでの延長線上として『子どもたちは遊び(夢)の中に埋没することで、絶望を振り払う』ともとれるし『富の象徴で皮肉を効かせた』ともとれるし、まぁ一番メッセージ性が高かったのがラストシーンかな…

 

…というわけで、こうなんだろ、文章量がダラダラどんどん増えていくところ何とかしたい…まぁ文章の訓練ということで…書かなきゃうまくならんし…超感動したわけでもない映画においても、約4900字近い文量だと?…下手くそすぎか…ただ書きながら整理されて気づくこともあるのは面白いね。しかし長文になり過ぎる…時間もくそかかるし…次回は文量と時間が半分くらいになるように頑張ろう…

 

ではまた何かの機会で♪