ねこノあしあと

ニャタが思ったこと、考えたことの書留処。

「普通」について思うこと

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But life's like this
(人生ってのはね)
You, you fall and you crawl and you break
(落ちこんで、這いずりまわって、傷ついて)
And you take what you get and you turn it into honesty
(そうして手に入れたもので 本当の自分を取り戻していくものなのよ)

Avril Lavigne - 『Complicated』抜粋

 

久しぶりの投稿だけど、また文字数が長くなる話題を選んじゃった…前回から続く反省を反省しない(汗)

でも最近、何かと同じ類の想いを抱くことが多いので、メモ的に自分の思考を残しておきたく、つらつらと書いてみる。

 

人種, LGBT, 男女, 外見…

ちょっと前に、ブルーノ・マーズは「文化の盗用」だという話題が炎上している記事を読んで驚いた。「文化の盗用」という概念も驚いたし、この話題自体には色々な論点があると思うけど「様々な人種的背景を持つ"特別"な人に対して、オマエは私と同じ”普通”の黒人じゃない」として排斥している点が気になった。

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※人種的に複雑な背景での攻撃という意味では、水原希子さんへのヘイトもありました。

水原希子が卑劣なヘイト攻撃に「2週間くらい泣き続けた」と告白! それでも屈せず発信し続けた反差別と平和への思い|LITERA/リテラ

 

LGBTの話題も最近は多い。性自認と性指向が異なる人の苦しみの声を受けて、多くの人たちがその認知とあり方への賛意を示している。

Twitterを始める前までは、あまり認識がなかったけれども、私自身もそれらの方々の在り方に敬愛を持ちたいと思っている。

 

男らしさ、女らしさのつぶやきは、1年経たないTwitterライフで、何度も炎上するのを見た。ルッキズムという単語もまた目にする。男女らしさの規範や差別に苦しみ、外見の差別に苦しむ……私は多くの苦しみに対して「苦しみを許容しろ」と言える強さはないから、それらを強いるものにやはり不当を感じる。

 

大雑把で楽天的なので、未来は明るいと思って生きたい。

そんな私にとって、上記にあげた人種やLGBTや男女や外見や……その他の多くの苦しみの声に、励ましと賛同の声が大きい事に希望を持ってる。未来は今まで拾われなかった小さな声が拾われ、苦しみが少ない社会になると信じたい。

 

ただ、それがどんな未来なのかがうまくイメージできなくてモヤモヤし、メモ書きしている。

 

「普通」という「ゼロ」を持つこと

人種・男・女・外見……これらの言葉が持つ「普通」のイメージは、初めて出会う全くの未知の他人を理解するのに、少なくとも大きな役割を持っていないだろうか?

 

白人であれば、フランクで饒舌でハグに抵抗がなく、黒人であれば、運動能力に優れてRAPが上手いに違いない。男であれば、力強く強引で、女であれば優しく淑やかだ。美しい人は、優雅で知的であり、醜い人は下品で愚かだ……勿論正しくない。でも、これらのステレオタイプの「普通」は、他者の理解に役立っているのでは?

 

生得的な要素や肩書(地位、職業など)が持つイメージというものはある。それは最大公約数的な知見から得たイメージなのか、権威や文化が広めた都合の良いイメージかは置いておき、少なくとも他者をはかる「ゼロ」という基準値の役割を果たしている。

 

「白人」では"あるが"あの人はシャイだ、「黒人」では"あるが"この人は運動音痴だ、「男」では"あるが"…「女」では"あるが"…

 

ステレオタイプという「ゼロ」の位置があるから、目の前の人は「この面では-1、あの面では+3」という「ゼロ」からの差異で評価をし、その人を深く理解していける。

目の前にいる見知らぬ他人に対しては、一般的に人を表す「普通」の要素群の、それらイメージの集合体として、まずその人を理解しようとしているのではないだろうか?

 

比べられる「普通」があるから、その人の個性を愛せる。

一般的なモノから外れているからこそ、その人の個性を「特別」に感じるかもしれない。

 

私が感じているモヤモヤとは、つまり、未来には「特別」が存在しなくなるのでは?という点だ。

 

ステレオタイプの"普通"のイメージは持ってはいけない!誰もが特別なのだ!』

現代にはこの「普通」をもってはいけない!と戒め、禁止する傾向があると思う。「普通」を失くしていけば、当然「特別」も失くなっていく……

 

初対面の人を生得的な要素で判断してはいけない。肩書や社会的地位などももってのほかだ。この人は、アジア人(日本人)っぽく見えるがミックスかもしれず、自認は黒人かもしれないし、彼は彼でなく、身体は女であるかもしれない。性自認や指向?わかるわけがない。美醜や年齢、兄である、妹であるなどの関係性で先入観を持つ?この差別主義者め!?

 

おぉ…初めて会う他人の得体の知れなさ半端ないって!アイツ半端ないって!

(大迫選手、コロンビア戦の決勝ヘッド素晴らしかったです)

「大迫半端ないって」一夜で拡散 流行語大賞有力? - 社会 : 日刊スポーツ

 

これまで親しんできた「普通」とか「世間一般」という偶像。この「大きな物語」を共有できない未来では、いったい何を縁(よすが)に他人をはかれば良いんだろう?

 

「普通」の中にあった救い

ある苦しさを与える「普通」の横暴を目にした時、人はその「普通」を指さして『"普通"であることをやめろ!』と叫ぶ。気持ちはわかる。けれど、たぶんその「普通」を全否定して破壊し尽くしちゃ不味い気がしている。

 

他者を理解するのに「〇〇なら××であるのが"普通"」という基準がないのはツライ。

毎回手探りで他人のイメージを自分の中に一から構築していくのは、時間がいくらあっても足りない。得体の知れない他人と関わり、関係を構築しなきゃならない社会で生きるのに、それではあまりに非効率だ。

 

「机」という概念を用いずに、毎回「木の足が4本あって板がついた物」として認識するのが大変過ぎるのと同じだ。
初めて見る「机」らしきモノを認識するには、「机」という概念を利用した方が圧倒的に早い。材質や足の本数の差異は「木の足が4本あって板がついた物」からの差分として理解していけば良い。

 

他人を見るときだけじゃない。

自分自身が拠って立つにも、「普通」という指標があるのは救いだ。 冒頭のブルーノ・マーズを糾弾した女性のセレンは、おそらく「普通」の黒人である。黒人であるということに、誇りとアイデンティティを持っている。黒人らしく振舞うことを何より好んでいるかもしれない。

 

ステレオタイプは、そのステレオタイプが要求する「普通」らしくあるだけで一定の社会的評価を得られる。男らしい男、女らしい女、父親らしい父、母親らしい母……

○○らしく振舞う事は、(その是非はおき)それだけで評価が得られる。「普通」であることは、マニュアルのある社会的地位が約束された道を歩むことではないだろうか?

 

セレンは、おそらく自らのアイデンティティを「黒人」に多く依存している。彼女は「黒人らしくあること」で立っている。

その「黒人」に対する棄損になりえると考えたから、炎のように怒ってブルーノを糾弾したのだろう。でもそれは、彼女個人が持つ「特別」な何かではなく、自らがただ黒人であるという「普通」のことに、より多くの価値を見出してしまった結果ではないだろうか?

 

一昔前は、誰かにとってのある苦しみを生み出している「普通」は、他の誰かにとっての利益も与えていたのだと思う。

ただ男らしくあれば、女らしくあれば、父らしく、母らしく……それだけでその人は偉かった。だから、○○らしいステレオタイプであろうと頑張った。

 

他者への意思の伝達がどんなに下手でも、男らしく黙っていればそれでカッコいい。

自分の意思で考えなくても、女らしく黙って従っていれば妻として魅力的だ……

例の内容はさておいて、ある種の欠陥を糊塗できる効果が○○らしさにはあった。

 

学歴社会における神話も、ある意味、この「普通」であることと似ていて、良い大学に入学さえすれば、社会的地位と幸福が約束されていた。

昔は、社会や世間の評価基準がはっきりしており、それを得る手段が単純で明快だったのだろうと思う。

 

「男」「女」「兄」「姉」「夫」「妻」「父」「母」……数十年前ならそれらの言葉における「○○らしい」仕草をしていれば、それだけで評価されたモノたち。

 

それらが要求する「普通」らしさを頑張ることはわかりやすかった。

言葉のイメージも実際の例も、そこかしこに溢れていたから。ただそれらを真似る努力さえできれば、多くの人は自然と評価されたのだ。

 

でも今は「男らしい男」がなくなった。「女らしい女」もない。「○○らしい」なんてわかりやすい指標はなくなってしまった。○○らしさの苦しみがあったからだ。

 

私たちは「私らしさ」を求めなきゃいけない。「私らしさ」という「特別」にならなきゃいけない。でも一体、それはどこにあってどうやってなるんだろう?「○○らしい私」なら、やり方も例もあるし、それで簡単にプライドと評価も得られたのに……

 

ステレオタイプの普通さ」を真似る努力では評価されず、欠陥も補ってくれない未来で、「特別」を持たない「普通」の人はどうやって救われれば良いんだろう?

 

破壊と創造は表裏一体

小さき声が拾えるようになり、暗い影に隠れていた苦しみが発見され、それらを救おうという現代を愛する。でも苦しみを救うために、今まであった「普通」の一部は、もう修復不可能なくらいに破壊されてきている。

 

影に光をあて、苦しみの原因を糾弾して破壊する運動は、1年と経たない短いTwitterライフでも何となく見て取れる(ネット初心者の私は、普段Twitterの住民)。

けれども破壊したあとに、破壊したものを創造しようとする意思があまり見られない気がする。「そんな〇〇はけしからん!」と憤慨するのは同意するし、わかる。ヒドイよなと思う。じゃあ理想の〇〇とは?

 

この〇〇が単に「けしからん○○をしない」という、カウンターとしての描き方にしか見えなくて、場当たり的であんまりしっくりこない。本当にそれが理想の〇〇なのかな?と思ってしまう。

破壊には合わせて創造をする意思も必要だ。反対意見だけ出して代案がない、またはしょぼいみたいな感想をよく持つ。

 

代案の「普通」がないから、その反動として、昔の家父長制などを称揚する向きもある気がする。長い時をかけて構築された「普通」を、わずかの間に構築できるわけもなく、今は過渡期なのだろうなとも思う。

 

ただ「新時代の新たな人間とはこうあるべきだ!」という信念や思想の主張が少ない気はする。新世界の夜神君くらいの勢いが欲しい。

 

破壊は引き算だ。破壊する対象から本質を削りだすことはできる。

しかし、削れてしまった本質で、自分が助けたいモノだけではなく、それに関わるその他全てを、今まで通りに救えるのかは考えるべきなんじゃないだろうか?

 

大抵の場合は、削れてしまったモノでは、それまでと同じように対象を救えないので、削った部分を補うよう、削る対象を変化させ、新たに創造するのが自然だと思う。

 

この破壊と創造を同時進行でしてやらないと、セレンや私みたいな「特別」がないその他大勢の人間には、辛い未来になる気がしている。

「黒人」という「普通」しか頑張れるものがない人から、その「普通」を取ったら?

 

社会での実践的な価値が低くなった"削られた"「普通」では、これまでのようにただ「普通」を真似るだけでは、十分に自己のアイデンティティや地位を確立できなくなっていくんだろう……

 

「普通」の人たちに慈悲を…

涙を見せちゃいけない、女子供を守らなきゃならない、強くなきゃいけない……

そんな規範に潰される男がいる一方、その「普通」が要求する規範を守り、目指して自信に変えた男はいただろう。

 

でも未来はそんな「普通」の男を良しとしない。弱い男もいるからだ。

私だって弱い男だ。そんな規範を守れる気がしない。性別に対する○○らしさを持つ事自体、おそらく悪となっていくのだと思う。

 

過去は「普通」の規範をこなせる人を評価して救ってきた。現在は「普通」の規範を破壊して緩くし、より多くの人を救おうとしているように見える。

※「普通」の規範の適用対象に、そもそも入っていない人たち(例えば障碍者など)がいる時点で、破壊のアプローチでは限界があると思う。だから、新しい「普通」の創造が必要とは思ってはいるのだけど……

 

現在の傾向から考えれば、きっと未来の「普通」は優しい規範になるんだろう。

何かを強制したりはしないんだろう。でも、だからこそ、ただ「普通」であることは、これまでみたいに価値がある「普通」じゃない。

 

 そうしてみると、過去の「普通」は普通じゃなかった。社会が価値を見出していた時点で実は「特別」だったのかもしれない。

 

だから私には「普通」を持ちたくても持てなかった「特別」なブルーノを、「普通」しか持たなかったセレンが糾弾しているのは、何やらやっぱり象徴的な気がしてくる……

 

どんな未来になるのかはわからない。

これまでの「普通」の効能を捨てて、新たな方向に進むのか、それとも新時代用に修正した「普通」を創造していくのか……

 

でも、変わらない事実がある。「特別」な人は多くない。「普通」の人が大半だということだ。

 

未来を導く本当に「特別」な人たち!

どうか今より多くの「普通」の人たちを、今よりもっと上手く救ってほしい。

どうか今の「普通」の人たちを「特別」に導いていってほしい……と思う。

 

※数日この記事の原案を寝かしたまんまで公開するの忘れてたら、昨日はアイヌの民族文様の話で盛り上がってた…その流れでブルーノの記事も流れてた気がするけど、「文化の盗用」話はまた何か煮詰まったら書いてみようかな

 

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2018.06.29 追記

この文は、自動投稿でTwitterと指定時間に投稿できるか試してたのだが、下記の記事を添付しておくの忘れてた。

 

目に見えない人種差別「マイクロ・アグレッション」

karapaia.com

 

『マイクロ・アグレッション』という言葉も初耳だったけど、これもまた現在の「普通」が偏見に満ちているためな気がする。

 

Kiyunのこのプロジェクトは、どこの国の人間であろうが、本質的に相手を思いやることと、コミュニケーションの重要性を強調している。たとえ誰かを侮辱しているつもりはなくても、すべての人がそう解釈するとは限らないということなのだ。

 

そして、"じゃあ具体的にどうするんだよ?"と思ってしまう。

上記では「普通」についての思うことだったけど、この問題については、発信側への抑制だけではなく、基本的には受信側にも対処策が必要なんじゃないかなぁと考えている。

 

確かに発信側が傷つける。だから、発信側への注意・抑制は絶対に必須とは思う。でも、上記の通り、悪意がなくても事故というものは発生する。

 

「悪意に負けない強さを持て!」と受信側に強いることはできない。それは、自動車が暴走して人身事故を起こすのに、その自動車に打ち勝て!と言うに等しい。

 

しかし、事故に備えて「どんな車が往来しているか?」とか「信号は青なのか?」とか「ここは横断歩道か?」とか、まぁ色々と状況を見定めて、事故にあわない工夫と対策はしても良いと思う。これを声高にいう事は、もちろん事故を容認しかねないので出来ないけれども……ということで、追記終わり。