ねこノあしあと

ニャタが思ったこと、考えたことの書留処。

王様の"コトバ"に耳をかたむけよう

〇 初記事のため所信表明を一言!

SNSなんてやったことない私が、昨年2017年7月29日よりTwitterを始めた。

ニャタ (@FutamatanoCat) | Twitter

当初つぶやく予定はなかったが…

つぶやきが面白くなって慣れてくると140字制限がたまに鬱陶しく思うときが出てくる。※連ツイが多い時は…(。-人-。) ゴメンネ

そういうわけで、はてなブログに記載場所を用意した次第。

自分用のメモや雑記になる予定。三日坊主になる可能性も無きにしも非ず。

広大なネットの海の中、この記事を発見した方はそっ閉じ案件かもしれない。

奇特な方は、時間を無為に使うという贅沢に身を任せるのもよろしいかと思う。

(実は利用方法もよくわかっていない。Twitterにて、はてなブログの記事が時々流れていたので、ココを選択しただけである) 

閑話休題

でわ、さっそく、人生の初ブログをツラツラと…書いてみませうか。

 

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初回タイトルは「王様の"コトバ"に耳をかたむけよう 」

そういうわけで、テーマ曲はこれ。『Shall we ダンス?』っていい映画だよね~原曲もとの『王様と私』はまだ観てないんだけどさ…

www.youtube.com

 

〇 今年は早くも桜が舞い散った…

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4月になった先週、Twitter上では新入社員に向けた言葉がにぎわっていた。

初記事のテーマにもふさわしいように思えたので、この頃考えていたことを昔の若かった自分に向けて書いてみようと思う…人様にモノ申せるほど偉くないので(笑)

 

「納得力」という言葉が浮かんだ

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最近、「納得力」について考えていた。

どこかのビジネス本に出てきそうな、センスが毛ほどもない、今造った造語だが。

社会というステージ…特に仕事上で誰かと話をする時に、"個人の感情"や"感覚"を表現することは少ない。「わかりづらい」と思われているからだ。

でも、本当にそうなんだろうか?

 

仕事は、自分の好みだけで人と付き合えるわけじゃない。たいていは仕事が連れてきた人と作業を進めなければならない。付き合う人を選べて働けるのはほんの一握りだ。

そういうわけで、見知らぬ他人と考えを共有して仕事を進めるためには、言葉に「わかりやすさ」が必要となる。この「わかりやすさ」の最も手軽な方法が"ロジック"や"データ"を使うことだ。

 

客観的に誰が見たり聞いたりしてもわかるモノ…

それがビジネスの世界の共通語であり、便利な道具となっている。ある程度の練度でコレが使いこなせないヤツは、訓練されたリーマンとは言えない。

 

新人の頃、よく"たぶん"とか"だと思う"とか、感覚的な…または根拠を考察せず筋道だってもいない説明をしてよく怒られた。・・・今現在も怒られていた。

そうして最近ようやく、最低レベルで「論理」という道具が使えるようになってきて、やっと気づいたのだ。『この道具だけじゃ足りないんじゃねーの?』と。

 

〇 「わかりやすさ」が捨てるもの

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根拠が明確でデータもあり、筋道だった話は確かに一定の「わかりやすさ」を保障する。仕事に役だってもくれる。でも「わかりやすさ」という道具に習熟しすぎると、忘れやすく捨てやすくなるものがある。「個人の感情」だ。

 

例えば『ソレを伝えたい』と思った当初の"感情的な動機"などだ。

伝えたい内容自体に動機が含まれない場合、ときに説明の「わかりやすさ」のために、当初の"感情的な動機"が「わかりやすい」動機に改ざんされることは良くある話だ。

『発案者の商品に対する思い入れ』という動機よりも、"商品の魅力"から帰納法的に作り出された『このデザインこそが、商品が必然的に要求した製作の動機なのです!』という方がカッコよくて「わかりやすい」。感情的な動機は「わかりやすさ」に負けることは多い。

 

「わかりやすさ」のために捨てられる、個人の感情や感覚といった「主観的なモノ」たち…でも最近『この捨てられたモノたちって、本当に捨てても良いものか?』と思えてきた。

 

〇「感情」という王様

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最下級リーマンである私は、今年3月になって現状の現場で勤務を続けるか、別現場に行くかを選択できる場面があった。自分の中の理性も上司のアドバイスにしても、現状の現場で勤務を続けることが正解であるという「わかりやすい」「論理的」な説明を私に与えてくれた。でも私は「嫌」だった。


現場の人間関係が悪いわけではない。とても良好だ。仕事がツラくて大変・・・ではあるがまぁ過ぎるわけでもない。現在の職場をやめる「論理的」な理由はない。でも「嫌」だった。

 

この「嫌」を、私は「論理的」に上司に説明できなくて困った。(感情なのだから「論理的」な説明ができないのは当たり前なのだが)

「嫌」である根拠はいくつかある。でもそれには「論理的」に反論が可能なのだ。

 

例えば『この現場が長すぎて飽きた』には、『私より長く在籍している人もいるし、飽きない仕事を探すか創るかすれば良い』と言った反論が自身の中でも思いつく。その反論に対して、感情は弱々しいロジックしか提示できない。しかし、感情はすでに「嫌」という結論を決めている

 

様々な議論で起こる問題の1つはココかな?と内面でも推察できる気はする。

感情ってのは自分の中の結論を決めてしまえる特権がある

感情が決めた結論に向かって、話者がその自覚なしにロジックを組んだ主張があると、まぁ、荒れる議論となるだろう。この場合、その話者は妥協できない。主観が決めてしまった結論は、話者にとっては動かしがたいものだからだ。ピーマンが大嫌いで、その理屈をつけて主張する人間に、ピーマンを食べろという主張をそう簡単に納得させられるわけがない。そして何よりその出発点がロジックでなくその自覚もない以上、破綻は多くなる…


少々脱線したが、感情ってのは、基本的に"自分"という人間の主人なわけだ

この主人が社会に対してワガママを言って"自分"を困らせないよう、常日頃から"常識"とか"知識"とか"他人からの評価"とかその他色んなものを用いて、誘導したり、矯正したり、褒めたり叱ったりして、"自分"という国民を支配する良い王様で居てもらえるよう、人間はこの王様を常に教育しているんだと思われる。

 

そういうわけで、人が本当に心を決定するのは、その人の「感情」に従うのであって、けして「論理」でも「常識」でもない。もしそのように見えたのなら、それはその人がきちんと自分の王様を飼い慣らし、良い王様に治められた国民であるからだろう。

 

〇 「感情的共感」が足りない…すると?

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そういうわけで、初めの「納得力」になるのだ。

私が「論理」という社会人になって伺うようになった新しい主人ではなく、私の古い主人である「感情」を思い出し、『そりゃ、私の王様がNOって言ってますと説明できなかった時点で、誰かを上手く納得させられまい』とまさしく自分の中で納得がいった。

 

となると、今まで他人を説得するには「論理」があれば良いと考えていたが、どうやら違うようだぞ?ということに思い至るわけだ。

では、これらを踏まえて『納得するって何だろう?』と考えた時、

感情的共感を想起させて、ある考えを『うん、もっともだ』と認めること

になるだろうと考えた。

そうして見ると、仕事場における言葉たちに『「論理」はあっても「感情的共感」を起こさせる、つまり「納得力」に欠けた言葉は多いよなぁ』という風に思うわけだ。

 

いや、別に「感情的共感」を起こす言葉がなくても良いのだ。

賢王に統治された国民がすなわち社会人だ。「論理」がきちんとしていれば良い。それさえあれば、勝手に「感情的共感」は相手の王様の中で今流行の"忖度"によって補ってくれる。

『気に入らねーが筋は通ってやがる。この気に入らないという我(感情)は抑えて、この考えが良いという我(感情)となってやるか』

みたいな感じで。できない困った王様を持つ人もいるけど。

私が今いる業界はIT業界だし、私自身も木っ端なシステムエンジニアだし、「感情的共感」を入れるような余地が普段の仕事に存在しないのは確かだ。

 

しかし、しばらくの間、私は王様からの「嫌」という結論の発布に気づかなかった

「論理」に訓練された奴隷リーマンである私は、「感情」という王様の"コトバ"のマジ具合…「感情」の温度がいつの間にかわからなくなっていたのだ。

『ちょっとモヤモヤするが、筋は通っているので、この考えは好き!』

くらいまで、「論理」に訓練されたプロは自分の感情を忘れ去れる。"好き!"と考えた瞬間、もう本当の自分が何にモヤモヤしたか思い出せない。

そんな私であったため、この「嫌」がいつもの王の"つぶやき"であり、普段通りにこのちょっと愚鈍な王を調教してやれるだろうと思っていた。

だが、この「嫌」は結論の公布だったのだ…

 

〇 「主観的なモノ」は強化

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相手を納得させるには「感情的共感」つまり"相手の王様にうなづいてもらう"必要がある。

仕事のやりとりで「論理」を使って相手を説得するのは、世間の王様に賢王が多いからだ。相手の王様がどういう人物であるかを事前に見極められているのなら、ずばり相手の「感情」という王様に直訴する方法と手段をとるのが近道だろう。

 

先に話した「わかりやすさ」によって捨てられる「主観的なモノ」たちの重要性とはココだ。相手の王様によっては、むしろその主観性を強化することで、強烈な「納得力」を持つ可能性がある。

 

『(何となくあの人嫌い)ネクタイの趣味が合わないから、一緒に仕事したくない』

という部下の訴えに「納得力」はほとんどないが、

『(あの人は生理的に無理)ネコを見るのもイヤで見かけたら石を投げると言うあの人と、愛猫家の私は根本から合わないので、一緒に仕事したくない』

という訴えには、その強い主観的な経験が相手にも伝わるので、ある意味で十分に「論理的」であり「納得力」がある。

 

「納得力」は主観的なモノにも十分宿るのだ。

であるならば、主観的なものから抽出した下手な「論理」に頼るのではなく、むしろその主観を深く取り出して強化した時にこそ、「納得力」を持つ場合もあるだろう。

 

〇「納得力」を鍛えるには

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「感情的共感」を意識して使わないのか、それとも「論理」しか使えないのかで、仕事におけるその人の言葉は違って聞こえるだろう。

 

だから、きちんと他人への「納得力」を鍛えるには、普段から自分の「感情」という王様をよく見つめることが大事だ。自分の王様の"コトバ"もきちんと受け止められないで、誰かの王様をうなずかせられるわけがない。

 

私の王様はよく私の話を聞いてくれる素直で優しい王様で、ワガママをあまり言わなかった。言わないから人形くらいに思っていて、すっかり「論理」による院政が敷かれた気になっていた。でもやっぱり実権は握っていたのだ…

 

誰の王様でも、王様は普通あまりしゃべらないのだ。

頭の中で"しゃべった"時点で、実はそれは元の王様(感情)の"コトバ"じゃないんだ。

 たとえ近かったとしても。

 

私は最近オッサンになって涙もろくなったが、涙が流れて初めてどれだけ心が動いていたかを感じる事がある。

本当の王様の"コトバ"というのは、そういう時に伝わっている。

心が震える振動だったり、涙で濡れる感触だったり、思わず笑ったその声に、王様は自分に意志があることを伝えている。そういった王様の声なき声をちゃんと見つめてあげるのが「納得力」の筋トレだ

 

『ああ、僕の王様はこんな時に心震わすのだね』『ここまで私の王様は心を痛めていたんだね』『オレの王様はこういうセンスが好きなのか』

 

この筋トレで、自分と自分の王様を深く理解できるし、誰かの王様の動きもちゃんと予想がつくようになる。「論理」はイヤでも社会から学ばされる。オマエはきちんと自分の中の「王様の"コトバ"に耳をかたむけて」おけ。

私みたいに訓練され過ぎた男には、自分の王様の"コトバ"も、もううまく聞き取れやしないんだからよ。

 

 

〇 おまけ…というか愚痴

…え、ココまで読んだ人いるの?すごくね?もうお付き合いありがとうです。疲れてない?私は正直めちゃくちゃ疲れた。

告白すると人生でこんなに長い文を初めて書いたので、もう己の能力のなさに何度絶望しかけたか…書きたいことがあっちゃこっちゃ飛ぶんだよ!1書こうとしてるのに、3くらい出てきやがって! 『オレはどれだけこの紙面を漕げばいいんだ…』と海の広さと推進力の無さに絶望して3書くの諦めたら進み始めた…推進力は絞らないと出ないんですね。学びました。

それでも約5400字も使いやがって…文章の品質とかもう疲れて見てらんない…イラストは適当にのっけたけど。とりあえず漕ぎついたのでよしとしよう!

次回記事を書くならもっとグッと!短いものを書く!じゃないと続かねーよこんなの。土曜日1日使って余裕で終わらんかったわ…徹夜しかけて寝ちゃったじゃねーか。寝てるじゃねーか。

 

ということで、私の人生初長文にお付き合いいただいた方はありがとう。

いつかまたお会いできたら良いですね(o˘◡˘o)